何も続かない日記

何かを続けるために書いています。

散髪屋でしゃべりたくない

仕事終わりに散髪に行った。2ヶ月ぶりぐらいか。今行ってる散髪屋には1年弱通っていて、カットと眉毛カットで6000円ぐらいする。散髪屋の相場に詳しくないが、歩いていると嫌でも目にする散髪屋の看板を見ている限り(行動範囲に散髪屋がコンビニの比じゃないぐらい存在している。日本中がそうなんか?)、わりかし高めなんじゃないかと思う。

特に髪型にこだわりがあるわけでもないので、切ってもらえさえすれば割とどこでもいいのだが、このわりかし高めの散髪屋に落ち着いているのはひとえに居心地がいいからだ。カットに2000円、居心地の良さに4000円を支払っていると言っても過言ではない。

理由はいくつかあるが、まず男性専門の散髪屋なので、客も従業員も男性しかいないから入りやすい。それでいて内装もシンプルで落ち着いている。清潔感はあれどオシャレさが一切ない(誉め言葉)。そしてイスが2席しかない。あんまり広かったり一度に何人もの客がいると落ち着けないので、これもありがたい。くわえて、推定40代の店員がカットしてくれるので、薄毛などデリケートな悩みを話しやすい(過去に推定30代前半店員の店に通っていたが、髪のボリュームが少なくなり始めた時期にぺちゃんこになった後頭部を見て「メットでもかぶってきたんか?」と茶化されてから行くのをやめた)など。

店員は二人いて、比較的話しかけてこない方の店員をいつも指名している。この店のそもそもの居心地の良さに、その店員の話しかけてこなさをプラスすると心地よさが何倍にも膨れ上がる。

散髪されているときほど、一切の責任を放棄できる時間ってなかなかないと思う。イスに座らされ、布をかぶせられて髪を濡らされる。そして適当に髪型の注文をしたら、散髪が終わるまで自分に関する一切の責任は自分にはない。自分の全てを店員に委ねている状態。自分はただ座って目をつぶったりボーっとしているだけでいい。たまに「こんな感じでどうですか」と繰り出される確認に、大して確かめもせずに頷いているだけでいいのだ。その解放感がたまらなく気持ちいい。自分のような人間でも人生を歩んでいると否が応でも色んな責任がまとわりつく。息子として、兄として、住民として、部下として、社会の一員として、今を生きる生命体としての責任。その一切合切を、あの時間だけが忘れさせてくれる。「お疲れさまでした」と安寧の白い布を無理矢理引っぺがされるまでの、あの時間だけが。

そんな大切な時間に他愛もない会話を振られたり、矢継ぎ早に質問攻めにあったりすると、客としての責任、言葉を返す責任が生まれてしまう。これでは普段の日常と同じで、この時間になんの魅力も感じなくなってしまう。あれほど神聖なひとときだったものが、ただ単に伸びた髪を切るだけの作業と化す。適当に会話を続けて、早く帰りたいという気持ちが増す。とはいえ店員は店員でなごやかなムードを作ろうとしてくれているのはわかるし、邪険にはできないので困る。

今指名している店員は単純にあまり話さない方なのか、それとも自分の空気を察してあまり話しかけずにいてくれるのかわからないが、どちらにせよ自分にとってはすごく有難いことだ。おかげで散髪の時間がすごく楽しみになっている。

散髪に対して単純な疑問。喋らずに切った方がシンプルに散髪の質は上がると思うのですか、プロに限ってそんなことはないんですかね。