何も続かない日記

何かを続けるために書いています。

セーブポイント

どんなものでも一旦やらなくなると再開するのが本当に億劫になる。このブログもそうで、何か書きたい気持ちとやっぱ面倒くせ~って気持ちが大体2対8ぐらいの割合で存在していて、放っておけばいいものを生活の中で度々ブログが頭をよぎる瞬間があり、最近書いてないなとか、とは言っても書くこともないんだよなとか思ったり、なにをやっても続かない自分にうんざりしたり、そういうことがちらついてメンタルに悪影響を及ぼしかけるのが鬱陶しいのでもういっそのことブログを爆破してやろうとも思ったけれど、それはそれでなんとなくもったいない気がしてきて、どうにかこうにか気持ちを切らさないためのセーブポイントとしてこれを書いています。

ひとり

映画館に行った。ジュースやポップコーンのキャラメルの匂いが混ざったような、映画館特有の甘ったるい匂いが好きなので定期的に行くことにしている。あの匂いを嗅ぎに行っていると言っても過言ではない。

見たい映画が普段行く映画館では上映されていなかったので、やむを得ず近くにある別の映画館にした。普段行くところよりも規模が小さいからか、甘い匂いがあまりしなかったので少し残念だった。

レイトショーが終わり、スタッフがほとんど捌けてしまった館内を歩いてるとテンションが上がる。平日なこともあってか客も少なかったのでなおさら。本来人がいるべき場所に人がいないということが、このうえなく心地良い。

どんな場所もできるだけ人が少ない方が心が安らぐ。人がいない道、人がいない飲食店、人がいない職場、人がいない観光スポット、人がいない自宅。

でも孤独を楽しめるのは、所詮自分が孤独ではないことをわかっているからこそだ。家族がいて、知り合いがいて、よく見かける店員がいる。ひとりが好きだと言いながら、真にひとりになりたいなど微塵も思っていない。

夜中に誰もいない道を歩くことも、通りがかった誰かの家に明かりがついているからこそ安心して楽しめる。ひとりでないことを担保されながら、全力でひとりを味わう。

ノスタルジー

自分の職場のあるフロアには他にもいくつかテナントが入っていて、その中の1軒が何ヶ月か前に退去していった。その後新たに入居してくるテナントも現れず、未だに部屋はもぬけの殻になっている。

その部屋は廊下に面した壁が一部ガラス張りになっていて、廊下を通るたびに中の様子が少し窺える。何もない空っぽの部屋に窓が一つ。角度的に部屋の全体は見えない。夕方にはその窓から太陽の光が射す。何もない部屋に夕陽が差し込む様子を見ていると何となくノスタルジックな気持ちになり、癒される。ずっと見ていたいぐらいだが、空き部屋を覗いているところを同僚に見つかりたくないので、お手洗いに行くついでにちらりと眺める程度にとどめている。

シャッター通りや廃墟、雑草の生い茂った空き地といったものを見ているときにも似たような感覚を覚える。おそらく今の現状や未来から逃げるために、過去や過去を強く感じられるものに縋ることで安心感を得ているのだろうとばかり思っていたが、もしかしたらもっとひねくれた感情が根底にあるんじゃないかと最近は思うようになった。ノスタルジックな気持ちになれるなんて聞こえはいいが、単に「終わってしまったもの」に対する優越感に浸って安心しているだけなのかもしれない。

二度と開かないシャッターや取り壊された建物など、終わってしまったものは決して自分に追いついてくることはない。少なくとも時間という概念の中では。終わってしまったものは留まり続け、自分は怠惰ながらも時間の中を少しずつ進んでいく。時を経るということにだけ関して言えばそれは負けることのないレースで、その確約された勝利におそらく優越感と安心感を覚えているのだろうと思う。

ビジネスマンで溢れかえるオフィス街よりも寂れた商店街に魅力を感じるのも、風情があるとかそういうこと以上に、時間のレースにおいて相対的に勝ちやすそうだからだ。人に対してのみならず、建物や街に対しても優越を追い求めながら生きている。

今までなんとなくノスタルジーという言葉で形容していた言いようのない感情がとても好きだったけれど、そのことに気づいてからはひどく陰険な感情に思えてしまう。

これから

4月になった。色んなことが変わっていくが、変わらないこともいっぱいある。

自分の生活は何一つ変わらない。一緒に住む家族は生活の一部が大きく変わったが、その変化は自分の生活には一切の影響を及ぼさなかった。いくら生活を共にしていようが、生活同士が重なり合う部分というのは思ったよりも小さいのかもしれない。

仕事を3月で辞める予定だったが結局はダラダラと続けている。相変わらず何がしたいのかわからない毎日を送っているが、その悩みすら忘れてしまっていることがよくある。

これから先一人で生きていかなければいけなくなったときに、自分はどうなるんだろうと思う。少なくとも現時点では生活力は皆無で将来の展望もない。途方に暮れながら何もかもをスマホで検索しながら取り掛かることになるだろう。そう思うと危機感は募るものの、差し迫ってはこない。未だそうなるまでにしばらくの猶予があると高を括っているから。そんな猶予なんて明日いきなりなくなるかもしれないのに。

それでもダラダラと恥知らずな生活を続けられるのは、「明日いきなりなくなるかもしれない」なんて書きながらも、実際にはそんな明日が訪れる可能性を微塵も信じていないからだ。

What型人間

kindle unlimtedで適当に本を漁っていると、とある本に「Why型思考」と「What型思考」について書いてあった。これらの言葉が一般的に使われているものなのかは知らないけれど、字面を見てなんとなく自分はWhat型思考の人間なのだろうなと思った。

What型思考とは極端に言うと物事を目に見える形のまま捉えることで、Why型思考とは物事をそのまま捉えるのではなくその裏側を考えることらしい。定義を踏まえたうえでやはり予想は当たっていた。自分は生粋のWhat型人間だ。

これまでの人生において何事にも理由や原因を求めず、それはそういうものなんだろうと自分に無理矢理言い聞かせてきた。本質には目もくれず、物事の表層的な部分だけをすくい取って吸収する。二十数年生きてきて、自分は空っぽだなと思う原因の一つはここにあると思う。

この間Xで、子どもがテレビで競馬の中継を見ながらバランスボールの上にしゃがみ込み、ジョッキーの真似をして縄跳びをムチのように馬に見立てたバランスボールに打ち付けている様子を撮ったポストがバズっていた。その子のジョッキーの真似があまりにもうますぎて面白かったのだが、このポストに対する引用コメントで「ジョッキーがムチを打てる規定回数まで(その子が)守っていてすごい」というものがあった。

そのコメントを見たときに、ただただすげえ~としか思わなかった。そのような規定回数があるのも初めて知ったし、たまたまだろうけどその規定回数もクリアしているなんて、なんと奇跡的な動画だろうと。ただひたすらに感嘆しほっこりしていたのだが、「規定回数を守っているのはテレビのジョッキーの真似をしているだけ」という別のコメントが目につき、目から鱗が落ちた。同時に事の真偽はともかくとして、そんなことにまで考えが及ばなかった自分に割とがっくりときた。

ちょっと考えればわかることだと、後になって思う。テレビに映っているジョッキーの真似をしてムチをふるっているのだとすれば動きも当然トレースしているはずで、そうであればその子が規定回数をクリアするのも当然のはずなのだ。

このコメントを見た瞬間、このポストに反応している全員がそんなことはわかってるうえで楽しんでいるのだという風に見えた。ただ純粋にムチの規定回数を守る子どもに興奮していたのは自分1人だけであるように思えた。いや実際本当にそうなのかもしれない。

何もかもを疑ってかかるのは良くないが、考えすぎないのはもっと良くない。自分の欠落した部分の多くは考えなさすぎることに起因している。子どもの流暢なジョッキーの真似とムチの規定回数を無理矢理短絡的に繋げてしまう。この2つの間に別の何かを程よく噛ませられるのがWhy型思考なのだろう。

ここまで凝り固まってしまった思考のクセを今更矯正できるのかわからないが、せめて矯正しようとしなければと思う。物事に対してできるだけ問いかけていきたい。少し前に流行った「なぁぜなぁぜ」というフレーズもバカにできない。

買い替えたい

久しぶりにジムに行った。1ヶ月半ぶりぐらいか。カードキーをかざす機械が新しくなっている。内装も少し変わっていた。1年弱通っていたときには何も変わらなかったくせに、1ヶ月半サボった途端にこれだ。まるでその時間の重みを自覚させるかのようである。いや、単純に通っているときには変化に気づけていないだけか。もしくは忘れているだけかも。

チェストプレスとレッグプレスをしようと思っていたのだが、どちらにもマッチョの方が座られていたので断念した。とりあえず30分ぐらいランニングをして帰ることにする。1kmあたり7分半ペース。こうやってペースを覚えておくことで次へのモチベーションにつなげる作戦。

5年ぐらい履き続けている安物のスニーカーで走っているので、多分すごく足に負担がかかっている。ストレッチは一応走る前に欠かさず行っているが、それでも少し走っただけで膝やふくらはぎがすぐに痛くなる。靴のせいだろうとは思いながらも、だからといってランニングに適した靴に買い替えることはしない。理由としては第一に、100%靴のせいだとは言い切れないから。走り方とか、体重が問題である可能性もある。そして第二に、痛みは走るうちにマシにはなっていくので、まだ大事には至っていないと言うこと。

以上2つの言い訳を携えることで、新しく靴を買いに行くという面倒事から逃げ続けている。こういうことが他にもよくある。サイフも10年以上使っていてかなりみすぼらしいし、革のベルトは擦り切れてちぎれそうになっている。革靴はつま先が変色しだした。

これらを自覚するたびに居たたまれなくなり買い替えようと決意するのだが、時間が経つと忘れているし、たとえ思い出したとしてもあのときに感じた居たたまれなさは既になりを潜めており、結局後回しにしてしまう。

人に見られたときに恥ずかしいという気持ちはたぶん人一倍あると思う。ただその恥ずかしさを「新しいものに買い替える」ことではなく、「人に会わない」ことで回避しようとしているのだ。良くない傾向だ。

いい機会なので今週の土日はランニング用の靴と革のベルトを買いに行くことにする。そして革靴を磨く。なにかきっかけがほしかったので、無理矢理このブログをきっかけとさせていただき、こうしてネットの海へと宣言することで少しでも実行する確率を上げているわけです。

やりたくないことを先にやる

最近「やりたくないことを先にやる」という、まるで小学生が親から教わるようなことをこの年齢になって実践している。

そもそも自分は、期限が迫っている面倒な仕事を放置して取っ掛かりやすい簡単な仕事を進めたり、報告するのがはばかられることを後回しにしたり、とにかく嫌なことを先送りにすることがクセづいている社会人として致命的な終わり人間なのだが、ここのところ『「後回し」にしない技術』という本が刺さりに刺さっており、そこに書かれていること少しずつ実践してみている。「やりたくないことを先にやる」というのもその一環だ。

試しに先週の金曜日に、いつもなら確実に週明けに持ち越すような気の進まない仕事をどうにか先に終わらせてみたところ、ありえないレベルの幸福感に包まれながら帰宅することができた。溢れ出る達成感、全能感。やることを終わらせて帰路につく金曜日はこんなに気持ちいいのか。すごい。なんでもできる気がしていつも通りパチンコ屋に行って4000円負けた。

嫌なことを明日に持ち越すと明日が嫌になり、ひいては今日が嫌になるということ。単純なことだ。そんな単純なことを今ままで気にも留めずに、嫌なことをとにかく今日から排除して生きてきた。

散らかった部屋で物を押しのけてスペースを作ったところで部屋は散らかったままであるのと同じように、今日という一日から嫌なことを押しのけて楽しい一日にしたところで、それは表面的に楽しい一日に見せかけているだけで何の解決にもなっていない。むしろ押しのけられた物はどんどん端へと追いやられて積み重なっていき、状況はますます悪化していく。当たり前のこと。

今一番やりたくないことが、今一番やらなければいけないことらしい。とはいえ仕事という枠組みの中では、どれだけ嫌なことを先延ばしにしようともいずれ期限がやってくるので、やることを強制される。でも自分自身の問題に関してはそうはいかない。運動、勉強、転職、一人暮らし、人生設計。生きていくうえでしなければいけないだろうことは山ほどあるが、自分の問題に関しては枠組みや期限を自分自身で設けなければいけない。さもなければ遠ざければ遠ざけるほど、それらは永遠に遠ざかったままだ。仕事のように、勝手に期限に押し戻されて強制的に近づけられることはない。

とにかく仕事において「やりたくないことを先にやる」ことでまともな社会人へと近づきつつ、その姿勢を人生の諸問題へと拡張していくことが喫緊の課題だ。