神社、他人を評価しがち、カップル、よく話す人間

神社に行った。やたらと登山道が多い神社だ。おじいちゃんやらおばあちゃんやら家族づれやらカップルがいた。前にいたおじいちゃんやおばあちゃんを何人か抜かした。そのたびに優越感を覚えた。勝利を感じた。俺はおじいちゃんやおばあちゃんを登山道で抜かすことで、悦に入る人間だ。年齢の差、体力の差、筋力の差などは考慮に入れない。重要なのは、抜かしたか、抜かされたか、ただそれだけだ。

人間に出会うたび、評価が始まる。その人と俺を比べる。俺はその人よりマシか、その人が俺よりマシか。世の中には2種類の人間しかいない。俺よりマシな人間か、俺よりマシではない人間だ。その判定は自動的に下されるため、やめようと思ってもやめられない。評価基準は色々ある。登山道における一つの評価基準が、山を登るスピードであるということだ。

前にカップルがいた。やたらとほほえましい会話をしていた。「今度○○神社行かん?」「うん、行きたーい、いこいこ。いつにする?」「いつにしよっか~。早い方がいいかな?」「そうやな。とりあえずご飯たべながら考えよ」「そうしよ~」「そういえば昨日のLINEめっちゃうれしかった」「えーそう?喜んでくれてうれしいー」「ていうかLINEくるだけでうれしいけど」「あははー」

もっと聞いていたかったがこれ以上は聞けなかった。こういう会話を延々に聞いていたい。こういう会話を聞くために俺の耳はあるのではないかと半ば本気で思った。なぜこういう会話にこうも惹かれるのだろうかと考えたが、そこに承認欲求がないからだと思った。承認欲求のない、純粋な愛と愛のぶつかり合いだからだ。いや厳密にいえば承認欲求はあるのだろうが、それは完全に二人の間で完結している。お互いがお互いの承認欲求を満たし合えている。何一つ不要なものがなく、何一つ不足していないような空間だった。強いて言えば数秒間だけ真後ろにいた俺という存在だけが不要だった。

韓国料理屋にいった。おじさん二人とおばさん一人が隣のテーブルで食事をしていた。おばさんが良くしゃべった。おばさんの友達の娘が東京に住んでいて、夜にどこかの公園で犬の散歩をしているキムタクを見かけらしい。その他にも○○に住んでいる○○がどうのこうのと、やたらとしゃべっていた。よくしゃべる人間というのは記憶力がよくて、話の上手い人間は想像力があるのだなと思った。俺が無口で口下手なのは、記憶力と想像力が欠如しているからなのだろうと思った。

好き嫌い

嫌いな人間がいる。反対に好きな人間もいる。だがそれはもっと厳密にいうと、誰に対しても好きな部分と嫌いな部分とがあり、そのどちらの割合が大きいかによって、好きな人間と嫌いな人間とを大別しているだけだ。だから嫌いな人間にも好ましい部分はあるし、好きな人間にも鬱陶しい部分がある。表面的に単純化された好き嫌いと、細分化された好き嫌いが食い違ったときに、混乱が生じる。自分の感情や考えに自信が持てなくなったり、最悪の場合は自分や相手に対して攻撃的になったりする。

ある本に影響されて文章が書きたくなり、毎日このブログを更新してみようという気になったはいいものの、本当に書くことがなんにも思いつかず、上の文章を書くだけで1時間半ぐらいかかった。しかも過去にたぶん同じようなことをもっとまともな文章で書いている気がする。まあええわ。

ちなみにこれは今日歯医者に行ったときにマジで思ったことだ。担当の歯科医師とサポートの歯科衛生士がいて、歯科医師が衛生士に対する態度が若干きつく、それを目にするたびに「なんやねんこいつ」と思っていたのだが、歯科医師の俺に対する態度は非常に誠実で優しく、処置も的確だったので、それぞ感じるたびに「俺は一生こいつについていく」と思ったりしたのだ。所詮人の好き嫌いなんてそういうものだ。

コミュ障、憂鬱、旅行

人を見ていて、この人はコミュニケーション下手やなあと思うことがある。自分がコミュ障だからこそ他人のコミュニケ―ション能力にシビアで敏感だ。薄毛が気になりだした人間が街行く人の頭皮の具合を逐一確認するようになるのと同じだ。自分のコンプレックスである部分は常に意識される。自分のそれを意識するあまり、他人のそれをもより意識するようになる。

とあるお笑い芸人に、この人はコミュニケーションが下手なのだろうと明確に思う人がいる。めちゃくちゃ売れている人だ。そして、多分だが世間一般からはそこまでコミュ力がないという評価は受けていない。俺の見る限り。

だが、人と話す時の間や返し方に、明らかにコミュ力のない人っぽさを感じる。それはこの人がこれまでの芸人人生で身に着けてきたであろう類まれなるお笑いの技術やテクニックでは覆い切れず、かすかに滲み出ている。

特にこの人を批判したいわけではない。ただ思うのは、これまで芸人として話術のレベルを上げるために血のにじむような研鑽をしてきた人間が、それでもこうやって素人目にもわかるようなコミュ力のなさを露呈してしまうのであれば、俺のような人間はこれから一生かけてもコミュ力の高い人間になることは叶わないであろうということだ。この人をテレビやネットで見るたびに、そしてこの人のコミュ力のなさを感じるたびに、それを思う。

自分の思うコミュ力のない人の特徴を挙げてみようと思ったが、やめた。そもそも人から言われるのならまだしも、この年齢になってまで自分のことをコミュ障であると口にすることがとんでもなく恥ずかしいことに思えてきた。

そもそも人間が自分をコミュ障であると口にするのは、ただ単に他人に好かれたいがためである。コミュ障であると宣言することでハードルを下げ、口下手な自分を許してもらい、あわよくば肯定してもらい、果ては気に入られようという魂胆でしかない。本当に、ただそれだけでしかない。自分を人見知りであるとか、コミュ障であるとか、そういうことを口にする大人はおそらくほぼ例外なくその浅ましさにより成り立っている。

そもそもそんなことで他人の好き嫌いは左右されない。他人の好意の基準を多少なりとも自分が操作できると思い込んでいる時点で愚かしい人間だということだ。

 

「憂鬱でなければ仕事じゃない」って本を読んだ。数年前に読んだことがあるのだが、そのときはただの成功者の自慢にしか思えなかったが、今読むと割と腑に落ちるというか、結局あれこれと理屈をこねくり回して考えているよりも目の前のことを死ぬほど頑張った方が良い結果が得られるであろうということは、ここ数年でなんとなく肌で感じていることだった。

人生において、鬼気迫るほどの圧倒的な努力をしたことがあっただろうかと自問した。ないな、と即答した。本当の努力とは自己犠牲であり、利他的であるような気がする。俺の努力は自己満足であり利己的だ。利己的な努力はある程度のところまで達すると急速に萎んでいく。なんなら努力をし始めた瞬間が最も自己満足を得られ、続ければ続けるほどその快感は小さくなっていく。最初の三、四口目ぐらいまではとびきり美味しいが、後半は惰性で食ってるラーメンみたいなものだ。

 

そもそも人生自体が憂鬱なものだ。憂鬱なのがデフォで、憂鬱でないときが異常だ。

幸せな気分になるのは大体3パターンで、未来に起こる楽しみなことを想像しているときと、過去にあった楽しいことを思い返しているときと、実際に今現在楽しみを享受しているときだ。それ以外はすべて憂鬱だ。

その憂鬱からできるだけ逃れるために、この3パターンのどれかを貪るが、純度100パーセントの幸せというのはどこにも存在せず、なにをしていても心のどこかには憂鬱がある。

あるいは憂鬱自体を受け入れ、楽しもうとするやりかたもあるが、どこか傲慢な感じがする。そもそも受け入れられたり、楽しめたりする時点でそれは憂鬱ではない。それならばいっそのこと、わざと憂鬱なことを考えたり、できるだけ憂鬱な気分でいようとしてみたり、憂鬱なことを率先してやってみようとしてみたが、ストレスなのかなんなのか、喉が詰まるような感じがしてきたのでやめた。

 

シルバーウィークの最終日に日帰り旅行に行った。家から大体3時間ぐらいで行ける場所だ。県外の、それこそ近畿圏外に出たのは相当久しぶりのことだった。多分10年ぶりぐらいだ。

だからと言って、そこまで感情は動かなかった。たとえどこに行ったとしても街があり、建物があり、飲食店があり、山や川や田んぼなどがあり、至る所に日本人がいるわけで、大まかに変わり映えはしないなと思った。たぶんこれは北海道に行こうか沖縄に行こうがどこかの島に行こうが同じだろう。

google mapを見ると確かに遠くまで来ていることは分かる。だが公共交通機関を利用している以上、そこまでの移動にかかる労力やら時間やらは大幅に短縮され、RPGでフィールド上をワープしているのに近い感覚になる。新幹線に3時間乗って遠くへ行くよりも、家から30分歩いてどこかの飲食店に向かう方が、圧倒的な移動を感じる。

「ここまで来た」という感覚を本当に得るには、そこでしか会えない友人か知人に会いに行くか、あるいは国外にでも行くしかないのだろうと思った。とりあえずパスポートを取ることにした。

読まれたい

ふと思い立ち、1週間に1回このブログに何か書くことを自分に課すことにした。大した理由はない。前からスターを非表示にすることで奇人ぶっていたが、それもやめた。小手先で唯一無二ぶろうとしている自分がアホらしくなったのと、そもそも人がはてなブログをする理由はただスターをもらうという一点のみにあるわけであって、それを非表示にするというのはつまり採点機能を付けずにヒトカラをするようなものであるわけで、それって何が楽しいん?ということだ。

だからと言ってなにか書きたいことがあるわけでもない。というか、なにを書いてもスッキリしない気がして気持ち悪い。なにを書いたところでそれは承認欲求のためのものでしかない。日常を書こうが愚痴を言おうが不幸を嘆こうが、すべては他人から尊敬、共感、同情のどれかを得たいがためでしかない。

できるだけ承認欲求を隠して、あたかも俺はただここに思ったことをありのままに書き連ねているだけで、それをあなた方がたまたま読んでいるだけなのですよというスタンスを取ろうとしても、ブログに投稿している時点でそんな言い訳は通用しない。いくら気にしていない風を装っていても、チラチラ横目で他人の反応を窺っているのが文章からにじみ出る。独り言っぽく書いている系のブログにはすべてその違和感がある。

だからこそ完全に読者に向けてブログを書いている人のすごさを感じる。完全に読者に語りかけるという行為には、承認欲求に対する照れがないからだ。逆に独り言形式にはその照れがある。照れがあるブログなんて誰でも書けるが、照れがないブログはそう簡単に書けない。多分倍以上のパワーが要ると思う。前はああいう照れがないブログをダサいと思っていたが、今となってはあれこそがブログであると思っている。俺にはできない。自分にはできないという理由ですごいと思っているだけかもしれない。

人のブログをあまり読まなくなった。自分の人生と誰かの人生との相対化が必要なくなったというか、いや必要がなくなったわけではないが、人のブログを読むことによる相対化にあまり意味を感じなくなった。前は自分の毎日をどうしていいかわからず、藁にも縋る思いで人のブログを読んだりしていたが、それらを摂取したおかげで今はその時に比べると毎日が安定しているのかもしれないし、人のブログから得られるものなど大してないということに気づいただけかもしれない。

そうなってしまえば人のブログというのはただ単にSNSのさらなる長文バージョンみたいなもので、ハッキリ言って知らん人がどこで何をしていようが何を考えていようが、別にどうだっていいのだ。自分の人生に関係がないし、だからあまり読まなくなった。ただそれだけのことだ。

ではなぜこんなものをまた書き始めたかというと、俺は人のことは読まないが、人には俺のことを読んでほしいからだ。Aqua Timezの「千の夜をこえて」という曲に「愛されたい でも愛そうとしない」という歌詞があるが、まさにそれだ。ただ単に、俺は読みませんが俺のことは読んでくださいという、それだけのことだ。この歌詞はその後に「僕が見つけた答えは一つ 怖くたって傷ついたって 好きな人には好きって伝えるんだ」と続くが、おそらくそれができる人間が照れのないブログを書けるのだろう。

 

道化

飲み会に行く。道化を演じる。自らの考えのなさを浮き彫りにされそうなとき、まるでそれが唯一無二の個性であるかのように振る舞う。何もない人間であることをつつかれたくないがために、何もない人間であると先に主張することで先手を打つ。あえて何もない人間という道化を過剰に演じることで、何もない人間を覆い隠す。世俗のなんやかんやを大して気にしない、無頓着な、あるいは超越した、そういうような人間であると演出する。引かれたり、気味悪がられたり、たまに面白がられたり、興味をなくされたりする。なぜこんなことをしているのだろうと思う。ただ飯を食って、思ったことを話して、酒を飲むだけではダメなのかと思う。きっとダメなのだろうと思う。感情は何よりも優先される。反射的なものだからだ。思考はせいぜいそれを後から追随するだけだ。感情が先走る以上、道化は発動する。一種の防衛本能だ。本当に気持ち悪がられないようギリギリのラインを見極めながら、笑ってもらいつつも、自身のプライドもできるだけ傷つけられないようにバランスをとる。キモいやつにも、つまらないやつにも、何もないやつにもなりたくない。自分ではいたいし、自分にはなりたくない。飲み会には全員が反射的に笑うようなタイミングがある。全員が一気に噴き出し、爆発的な笑いが起こる。なにがそんなに面白いかわからない。本当にわからない。だがタイミングを合わせて後追いで笑っておく。画面に表示されたボタンをただ押しているだけのような感覚だ。そうこうしている間に飲み会は終わる。道化をやり切った後にはなにも得られないし、なにも残らない。比較的笑ってもらえたような振る舞いを恥ずかしげもなく思い返し、多少の悦に浸るだけだ。また特になにもない日々が繰り返され、飲み会に誘われれば前日から道化の練習を行う。会話のパターンをいくつか想定し、シミュレーションをする。実際に想定された会話が行われることはほとんどない。それでも不安だから想定をする。想定をせずにはいられない。想定が良い方向に転ぶことは一切なく、むしろ回答を事前に用意してしまっているせいで、会話がチグハグになることが山ほどある。空気が凍る。だからなんだというのだろう。どうでもいい。どうでもいいと、今ならそう思えるが、そのときはそうは思えない。飲み会はおもんない。人との会話はもっとおもんない。

猛烈に生きる

炎天下の中を片道50分かかる図書館を目指してダラダラ歩きながら、今日読んだ本のことを思い出していた。岡本太郎の本だ。なにかしらの創作活動に携わる人間が「あなたのバイブルは?」の欄に記載しがちの本だ。初めて読んでみたが、たしかにエネルギーが湧いてくるような気がする。問題は、その湧いてきたエネルギーをどう発散させるかだ。歩きながら、人生を猛烈に生きるとは、どういうことなのだろうと考えていた。特にそれらしき答えがなにも浮かばないことを、暑さのせいにした。ただふと思ったのは、常に何事も全力でやればいいのではないかということだ。炎天下を歩く、図書館で本を選ぶ、本を読む、ゲームをする、ご飯を作る、食べる、掃除機をかける、歯を磨く、風呂に入る、髪を乾かす、寝る。どんな些細なことであっても、とにかく今やっていることに対し、全力で向き合い情熱を燃やすこと。それが要するに瞬間瞬間を猛烈に生きるということなのではないかと、いつも通り他人の言葉を過剰に単純化して理解した気になり、満足し、寝る。

ノリ

人生をノリで生きている。そういう自覚がある。ノリで生きていると書くとなんとなく、明るく快活で楽天的で物怖じせず、何事も全力で楽しむような人物像を思い浮かべるが、そのどれにも当てはまらない。むしろ暗くて悲観的で、周りから自分がどう見えているかだけに気を配り、自分に優しくしてくれる人間には好意を抱くが、そうでない人間にはビビり、あるいは敵視し、嫉妬し、自分より下だと判断した人間のことは徹底的に侮る、そういう人間だ。そういう人間のくせに、ノリで生きている。自分の殻に閉じこもり、内省し、考えをこねくりまわし、自分だけの独自の世界を作り上げているわけでもない。とくに自分の考えもない。意見もない。色々考えている風を装っているものの、結局はノリで生きている。ノリというのは少し語弊があるかもしれない。ただなんとなく生きている。なんとなく生き、なんとなく金がいるので、なんとなく仕事をしている。今の仕事を始めて数年になるが、なんとなくでしかやっていないものだから、今自分がやっている業務の意義がよくわからないなんてことも日常茶飯事だ。

きっとノリでしか生きられない。考えることが苦手で、嫌いだ。いや考えること自体はいい。考えた先に結論を出したり、選択をするのが嫌いだ。いくつかの選択肢を吟味し、推敲し、最適なものを選ぶ作業が死ぬほど嫌いだ。ある程度考えたら、だんだん面倒になってきて、もうどうでもよくなって、最終的には適当に決める。その選択が最悪な場合もあるし、まあまあ良い場合もある。ただいずれにせよ、結局また俺はノリで決めたんだなという思いはずっと残る。なぜその選択をしたのか問われても答えられない。ノリで決めたからだ。

そのくせ、ノリで生きている人間になり切れない。あくまで考えて生きている人間を装ってしまう。その方がカッコいいだろうというのもあるし、そもそも俺自身が暗い人間だというのもある。暗い人間のくせに、ノリで生きているというところに、大きな矛盾がある。暗い人間は大抵、色々考えているものだからだ。考えているから暗いのか、暗いから考えているのかわからないが、とにかく暗い人間は考えているものだ。普通は。そこに一つのコンプレックスがある。暗い人間にもなり切れないし、ノリの人間にもなり切れない。それでいて、暗いくせにノリで生きている変わったヤツだとも思われたくはない。めんどくさすぎる。自分でもそう思う。結果、何にもなり切れないという絶大なコンプレックスがある。

思えば学生の頃からそうだった。最初は明るい陽キャになりたかったが、喋るのが下手でコミュ障であがり症で滑舌も悪かったので諦めた。次にオタクになろうとしてアニメを片っ端から見たものの、誰かに語れるほどの感受性も記憶力も言語化能力も熱量もなく、特にオタクの友達もできなかった。オタクは誰かにオタクだと認識されて初めてオタクとして誕生する。誰にも知られず共有せず、ただ一人でひそかにアニメを見て、そしてその大半の内容を忘れてしまっている俺はオタクにすらなれなかった。

その頃から、俺は何にならなり切れるのだろうという疑問がずっとある。他の人はなんやかんやで何かになり切っているように見える。それは自分から見た他人の一部分が単純化されてそう見えているだけかもしれない。いやたぶんきっとそうなのだろう。他人には他人の悩みがある。それは俺のこの悩みのように、きっとどうやっても本当の意味では誰にも理解してもらえず、自分自身で抱えていくしかないものだ。そういう悩みをきっと誰もが持っている。俺は俺でこれからも一生、暗いくせにノリでしか生きられない人生を歩むしかない。暗いのも変えられないし、ノリでしか生きられないのも変えられないからだ。当然この文章もノリで書いている。