ノリ

人生をノリで生きている。そういう自覚がある。ノリで生きていると書くとなんとなく、明るく快活で楽天的で物怖じせず、何事も全力で楽しむような人物像を思い浮かべるが、そのどれにも当てはまらない。むしろ暗くて悲観的で、周りから自分がどう見えているかだけに気を配り、自分に優しくしてくれる人間には好意を抱くが、そうでない人間にはビビり、あるいは敵視し、嫉妬し、自分より下だと判断した人間のことは徹底的に侮る、そういう人間だ。そういう人間のくせに、ノリで生きている。自分の殻に閉じこもり、内省し、考えをこねくりまわし、自分だけの独自の世界を作り上げているわけでもない。とくに自分の考えもない。意見もない。色々考えている風を装っているものの、結局はノリで生きている。ノリというのは少し語弊があるかもしれない。ただなんとなく生きている。なんとなく生き、なんとなく金がいるので、なんとなく仕事をしている。今の仕事を始めて数年になるが、なんとなくでしかやっていないものだから、今自分がやっている業務の意義がよくわからないなんてことも日常茶飯事だ。

きっとノリでしか生きられない。考えることが苦手で、嫌いだ。いや考えること自体はいい。考えた先に結論を出したり、選択をするのが嫌いだ。いくつかの選択肢を吟味し、推敲し、最適なものを選ぶ作業が死ぬほど嫌いだ。ある程度考えたら、だんだん面倒になってきて、もうどうでもよくなって、最終的には適当に決める。その選択が最悪な場合もあるし、まあまあ良い場合もある。ただいずれにせよ、結局また俺はノリで決めたんだなという思いはずっと残る。なぜその選択をしたのか問われても答えられない。ノリで決めたからだ。

そのくせ、ノリで生きている人間になり切れない。あくまで考えて生きている人間を装ってしまう。その方がカッコいいだろうというのもあるし、そもそも俺自身が暗い人間だというのもある。暗い人間のくせに、ノリで生きているというところに、大きな矛盾がある。暗い人間は大抵、色々考えているものだからだ。考えているから暗いのか、暗いから考えているのかわからないが、とにかく暗い人間は考えているものだ。普通は。そこに一つのコンプレックスがある。暗い人間にもなり切れないし、ノリの人間にもなり切れない。それでいて、暗いくせにノリで生きている変わったヤツだとも思われたくはない。めんどくさすぎる。自分でもそう思う。結果、何にもなり切れないという絶大なコンプレックスがある。

思えば学生の頃からそうだった。最初は明るい陽キャになりたかったが、喋るのが下手でコミュ障であがり症で滑舌も悪かったので諦めた。次にオタクになろうとしてアニメを片っ端から見たものの、誰かに語れるほどの感受性も記憶力も言語化能力も熱量もなく、特にオタクの友達もできなかった。オタクは誰かにオタクだと認識されて初めてオタクとして誕生する。誰にも知られず共有せず、ただ一人でひそかにアニメを見て、そしてその大半の内容を忘れてしまっている俺はオタクにすらなれなかった。

その頃から、俺は何にならなり切れるのだろうという疑問がずっとある。他の人はなんやかんやで何かになり切っているように見える。それは自分から見た他人の一部分が単純化されてそう見えているだけかもしれない。いやたぶんきっとそうなのだろう。他人には他人の悩みがある。それは俺のこの悩みのように、きっとどうやっても本当の意味では誰にも理解してもらえず、自分自身で抱えていくしかないものだ。そういう悩みをきっと誰もが持っている。俺は俺でこれからも一生、暗いくせにノリでしか生きられない人生を歩むしかない。暗いのも変えられないし、ノリでしか生きられないのも変えられないからだ。当然この文章もノリで書いている。

 

坊主にしたい

坊主にしたい。多少なりともカッコよく思われたいという欲求が生きる上で本当に無意味で無価値で邪魔なので、できる限り排除したいから。坊主にしたところでその欲求は変わらないかもしれないが、少なくとも髪型を気にする煩わしさからは逃れられる、と思う。ただ、いきなり坊主にすると周りの反応が面倒くさそうなので、少しずつ短髪にしていって、誰にも気づかれないままいつの間にか自然と坊主になっている、というのが理想。

同様に、1年間着る服を完全に固定したい。自分にはどんな服が似合うか、またはどんな服が着たいか、というのを探し求めていた時期もあったが、結局まったく見つからなかったため、今世についてはオシャレは諦めることにした。夏は無地の白Tとユニクロの黒い長ズボンという組み合わせで完璧に固定できているため、あとは春と秋と冬に着る服を固定させたい。これについては実際にもう少し涼しくなってから考える。まあハッキリ言って下はユニクロの黒い長ズボンで一年中オッケーなので、上を変えるだけで事足りるのだが。

選択肢を狭めることに快感を覚え始めている。クリスタルパズルとやらが売っていて、面白そうだからやってみようと思って買って帰って作り始めたが、やっているうちに果たしてコレを完成させたところでなにになるのだろうと思い始め、そこからは一切の感情がなくなり、一応完成させてすぐに捨ててしまった。なにもかもを冷笑するような人間にはなりたくないと思いつつも、自分がおもんないと感じるものを無理矢理面白がろうとしてもそこには苦痛しかない。もう本読んで散歩してYoutube見てるだけで人生いい気がしてきた。

自分に問う

自分に問う。

「お前は今ドラクエ3リメイクをやっている。総プレイ時間は23時間で、まだ進行度は半分ぐらいだ。今日も仕事終わりに2時間を費やした。貴重な2時間だ。今日という日の良し悪しはこの2時間で決まると言っても過言ではない、それぐらい貴重な2時間だ。その2時間を、ハッキリ言ってお前は大して好きでもないゲームに費やしている。いい加減認めたらどうだ。お前はドラクエに向いていない。好きでもないし、今後好きになる見込みもない。そもそもお前はゲームが好きなのか?好きと胸を張って言えるゲームを最後にプレイしたのはいつだ?心からやりたかった、やってよかったと思えるゲームに出会ったのは?すぐには思い当らないだろう。きっとそんなものは二十年ぐらい遡らないと出てこないはずだ。では今のお前にとってゲームとはなんだ?1本買うのに6000円も7000円も払って、挙句50時間だの100時間だのを費やす価値があるようなものなのか?お前は今ドラクエ3をやっているが、これをクリアした暁にはドラクエ1&2のリメイク、果てはドラクエ7リメイクにまで手を出すつもりでいただろう。それらすべてをクリアするのに何時間かかる?そのうえ、他のゲームにも目星をつけていたはずだ。イースXだの、テイルズシリーズだの、アトリエシリーズだの、龍が如くやらロックマンやらキングダムハーツやらを最初からプレイしてみようだの、妄想に妄想を膨らませてワクワクしていたよな?つまり今お前が大してハマってもいないドラクエ3に時間に費やしているのは、さっさと終わらせて次のゲームにいきたいという愚かな欲望にただ単に突き動かされているだけだ。次のゲームならもっと自分をたかぶらせてくれるであろうという、根拠のない期待感を抱いていたいがためだけに無理矢理ドラクエ3をやっているだけなのだ。これまでもそうだった。お前は最初楽しみでゲームを始めるが、なんかそこまでしっくりこず、とはいえせっかくやり始めたし最後までやるかという勝手な義務感にかられてダラダラとプレイし、その割には時間を忘れて没頭することもあり、結果クリアしてみたはいいものの、本当に面白かったどうかはよくわからない。いやたしかに面白い瞬間はあったのだが、ここまでの時間を費やしてプレイする価値があったかどうかと問われれば、自信をもって答えられない。最後らへんはもう、ただ次のゲームをやりたい一心で今のゲームをクリアまで進めている。ドラクエ3に限らず、これまでもずっとその繰り返しだっただろう。だからいい加減あきらめろ。お前はゲームが大して好きでもなく、ゲームが本当にやりたいのでもない。ただ「なにかをやっている自分」を演出するのにゲームがお手軽だっただけだ。何にもハマれない、没頭できない、情熱が燃やせない人間だと思いたくなくて、そういう自分を自分から覆い隠すために、休日はついつい時間を忘れてゲームをしてしまう自分、というのを作り上げていたかっただけだ。エントリーシートに書くためだけにボランティア活動をするような就活生と同じで、ゲーム大好き人間という肩書がほしくて無理矢理ゲームを買い、プレイしているだけだ。それならボランティアをしている方が何億倍もマシだろう。それを踏まえたうえで問うが、お前が今後ドラクエ3リメイクをクリアして、その後ドラクエ1&2リメイク、ドラクエ7リメイク、果てはドラクエ11、その他今気になっているような数十本のソフトをすべて買ってクリアするとして、その総時間はおそらく数千時間になるだろうが、お前はその数千時間を、特に心からやりたいわけでもない、ただまあせっかくSwitch2を持っているしなんとなくやってみるかというレベルの情熱しか燃やせないようなものに対し、本気で費やそうと思っているのか?そのほかにできたかもしれない全てのことを犠牲にしてまで、お前はドラクエ3を今後も進めていくのか?どうなんだ?」

自分は答える。

「明日売ります」

最終防衛ライン

一丁前に色々考えはするものの、結局何も続かない、何も成さない、一本の筋が通っていない、一貫性のない、確固たる信念の持ち得ない自分に毎回絶望しかけるが、ふと立ち止まる。そもそもそんな、確固たる信念を持っている人間っているのだろうか。俺が尊敬する人間は、大抵そういう風に自分の軸がしっかりしているように見える人間だが、それはある部分を切り取った結果そう見えているだけであって、人間の中には本来矛盾や葛藤やら曖昧なものが標準装備として内包されているのではないのだろうか。一本の確固たる芯があり、その確信めいたものに基づいて日々行動しているように見える人だって、立場や状況が変わればその芯を無理矢理捻じ曲げたり、あるいは自分自身がそれを信じられなくなったりする可能性もなくはないのではないか。だとしたらその人の抱える矛盾や葛藤は俺のそれとはどう違うのだろうか。単に知識や思考力や思慮深さや好奇心や言語能力や正義感や共感力に基づく違いなのだろうか。日頃から物事を考えているか、考えていないかの違い、あるいは考えるべきだと思っているか、考えなくてもええわと思っているかの違いだろうか。

そんなことをぼんやり考えていたら割と何もかもが別に大したことではないのではないかと思うようになってきて、最初はワクワクして書き始めた小説を三日で飽きてやめたことも、YoutubeとXのアプリを消しては入れ、消しては入れていることも、二度とやらないと決めたドラクエ3を結局諦めきれずにプレイしてはブチギレていることも、結局自分はなにが好きでなにをやっているときが楽しいのかが全くわからずじまいなことも、別にそこまで悪いことではないんじゃないかモードになっている。

人間の精神には自力で守るしかない最終防衛ラインみたいなのがあると思っていて、それが破られてしまうと自暴自棄になったり、なにかに100パーセント縋ることでしか自分を保てなくなったり、死を考えたりするが、逆に言えば、その最終防衛ラインさえ守っていれば、特に何をしていようが、何を考えていようが、あるいは何もせずに何も考えていなかろうが、大丈夫なのではないかと思った。どうしようもない毎日であっても、そのラインが守られているということは、底の底ではどうにか自分で踏ん張って立てているということであり、それはつまり多少なりとも自分の生に対し主体的に関わろうとしているということだ。その感覚が残っている限りは、どこまででも生きていけるような気がした。

DR.VAPE

Tverを見ていた。DR.VAPEとやらのCMが異常なほど流れていた。下の文言に、DR.VAPEは紙巻タバコでも、加熱式タバコでもありません、と書いていた(その二つの違いが俺には一切わからないが)。ではDR.VAPEは一体なんなんだという説明は書いていなかった。つまりはDR.VAPEはDR.VAPEであるということだ。DR.VAPEをDR.VAPEたらしめているのは、それがDR.VAPEであるというただ1点のみだということだ。

俺は喋りが面白いあの人でも、仕事ができるあの人でも、頭がよくて文章の上手いあの人でもありません、それと同じだ。DR.VAPEが紙巻きタバコやら加熱式タバコやらと間違われないためにそういった文言をCM中に拵えているように、俺は俺に自分で言い聞かせなければいけない。俺はただ俺でしかなく、紙巻きタバコでも加熱式タバコでもないということを、常に自らの視界の下にでも表示させつつ、肝に銘じておかなければならない。

世間を取り残す

YoutubeとXのアプリとブックマークを消し、サブスクを全て解約し、ここ数日順調に過ごしていたが、ロバート秋山と椎名唯華の動向が気になってついYoutubeを開いてしまった。

まあ別にそれはそれでいいのだが、悔しいのは、本来この二名以外の人間の動向は死ぬほどどうでもいいはずなのに、つい関連動画に導かれて、この二名以外の人間が映る動画を見てしまったことだ。最近はやっているのか、真っ先に出てきたのはおそらくAIで作られたであろうのび太とジャイアンとスネ夫がFirst takeに見立てたステージでなにやらラップを歌っている動画だ。再生数やコメント数はもちろんのこと、その動画への反応を記録した動画も量産されており、やけに盛り上がっていた。見てみたが、「ほえ~」という感想だ。まあどうやら前作とかの流れがあるっぽいので、これを初見で見たところで大半の人がそういう感想に終始するだろう。

こんなものは世間でもなんでもないかもしれないが、なにやら世間や流行から取り残されることに快感を覚え始めている。単純に逆張り人間なだけかもしれない。最近は電車の車両で自分以外の乗客全員がスマホをいじっているのを観測しているときが一番気持ちいい。世間に取り残されているのではなく、世間を取り残しているという感覚だ。