人を見ていて、この人はコミュニケーション下手やなあと思うことがある。自分がコミュ障だからこそ他人のコミュニケ―ション能力にシビアで敏感だ。薄毛が気になりだした人間が街行く人の頭皮の具合を逐一確認するようになるのと同じだ。自分のコンプレックスである部分は常に意識される。自分のそれを意識するあまり、他人のそれをもより意識するようになる。
とあるお笑い芸人に、この人はコミュニケーションが下手なのだろうと明確に思う人がいる。めちゃくちゃ売れている人だ。そして、多分だが世間一般からはそこまでコミュ力がないという評価は受けていない。俺の見る限り。
だが、人と話す時の間や返し方に、明らかにコミュ力のない人っぽさを感じる。それはこの人がこれまでの芸人人生で身に着けてきたであろう類まれなるお笑いの技術やテクニックでは覆い切れず、かすかに滲み出ている。
特にこの人を批判したいわけではない。ただ思うのは、これまで芸人として話術のレベルを上げるために血のにじむような研鑽をしてきた人間が、それでもこうやって素人目にもわかるようなコミュ力のなさを露呈してしまうのであれば、俺のような人間はこれから一生かけてもコミュ力の高い人間になることは叶わないであろうということだ。この人をテレビやネットで見るたびに、そしてこの人のコミュ力のなさを感じるたびに、それを思う。
自分の思うコミュ力のない人の特徴を挙げてみようと思ったが、やめた。そもそも人から言われるのならまだしも、この年齢になってまで自分のことをコミュ障であると口にすることがとんでもなく恥ずかしいことに思えてきた。
そもそも人間が自分をコミュ障であると口にするのは、ただ単に他人に好かれたいがためである。コミュ障であると宣言することでハードルを下げ、口下手な自分を許してもらい、あわよくば肯定してもらい、果ては気に入られようという魂胆でしかない。本当に、ただそれだけでしかない。自分を人見知りであるとか、コミュ障であるとか、そういうことを口にする大人はおそらくほぼ例外なくその浅ましさにより成り立っている。
そもそもそんなことで他人の好き嫌いは左右されない。他人の好意の基準を多少なりとも自分が操作できると思い込んでいる時点で愚かしい人間だということだ。
「憂鬱でなければ仕事じゃない」って本を読んだ。数年前に読んだことがあるのだが、そのときはただの成功者の自慢にしか思えなかったが、今読むと割と腑に落ちるというか、結局あれこれと理屈をこねくり回して考えているよりも目の前のことを死ぬほど頑張った方が良い結果が得られるであろうということは、ここ数年でなんとなく肌で感じていることだった。
人生において、鬼気迫るほどの圧倒的な努力をしたことがあっただろうかと自問した。ないな、と即答した。本当の努力とは自己犠牲であり、利他的であるような気がする。俺の努力は自己満足であり利己的だ。利己的な努力はある程度のところまで達すると急速に萎んでいく。なんなら努力をし始めた瞬間が最も自己満足を得られ、続ければ続けるほどその快感は小さくなっていく。最初の三、四口目ぐらいまではとびきり美味しいが、後半は惰性で食ってるラーメンみたいなものだ。
そもそも人生自体が憂鬱なものだ。憂鬱なのがデフォで、憂鬱でないときが異常だ。
幸せな気分になるのは大体3パターンで、未来に起こる楽しみなことを想像しているときと、過去にあった楽しいことを思い返しているときと、実際に今現在楽しみを享受しているときだ。それ以外はすべて憂鬱だ。
その憂鬱からできるだけ逃れるために、この3パターンのどれかを貪るが、純度100パーセントの幸せというのはどこにも存在せず、なにをしていても心のどこかには憂鬱がある。
あるいは憂鬱自体を受け入れ、楽しもうとするやりかたもあるが、どこか傲慢な感じがする。そもそも受け入れられたり、楽しめたりする時点でそれは憂鬱ではない。それならばいっそのこと、わざと憂鬱なことを考えたり、できるだけ憂鬱な気分でいようとしてみたり、憂鬱なことを率先してやってみようとしてみたが、ストレスなのかなんなのか、喉が詰まるような感じがしてきたのでやめた。
シルバーウィークの最終日に日帰り旅行に行った。家から大体3時間ぐらいで行ける場所だ。県外の、それこそ近畿圏外に出たのは相当久しぶりのことだった。多分10年ぶりぐらいだ。
だからと言って、そこまで感情は動かなかった。たとえどこに行ったとしても街があり、建物があり、飲食店があり、山や川や田んぼなどがあり、至る所に日本人がいるわけで、大まかに変わり映えはしないなと思った。たぶんこれは北海道に行こうか沖縄に行こうがどこかの島に行こうが同じだろう。
google mapを見ると確かに遠くまで来ていることは分かる。だが公共交通機関を利用している以上、そこまでの移動にかかる労力やら時間やらは大幅に短縮され、RPGでフィールド上をワープしているのに近い感覚になる。新幹線に3時間乗って遠くへ行くよりも、家から30分歩いてどこかの飲食店に向かう方が、圧倒的な移動を感じる。
「ここまで来た」という感覚を本当に得るには、そこでしか会えない友人か知人に会いに行くか、あるいは国外にでも行くしかないのだろうと思った。とりあえずパスポートを取ることにした。