何も続かない日記

何かを続けるために書いています。

ノスタルジー

自分の職場のあるフロアには他にもいくつかテナントが入っていて、その中の1軒が何ヶ月か前に退去していった。その後新たに入居してくるテナントも現れず、未だに部屋はもぬけの殻になっている。

その部屋は廊下に面した壁が一部ガラス張りになっていて、廊下を通るたびに中の様子が少し窺える。何もない空っぽの部屋に窓が一つ。角度的に部屋の全体は見えない。夕方にはその窓から太陽の光が射す。何もない部屋に夕陽が差し込む様子を見ていると何となくノスタルジックな気持ちになり、癒される。ずっと見ていたいぐらいだが、空き部屋を覗いているところを同僚に見つかりたくないので、お手洗いに行くついでにちらりと眺める程度にとどめている。

シャッター通りや廃墟、雑草の生い茂った空き地といったものを見ているときにも似たような感覚を覚える。おそらく今の現状や未来から逃げるために、過去や過去を強く感じられるものに縋ることで安心感を得ているのだろうとばかり思っていたが、もしかしたらもっとひねくれた感情が根底にあるんじゃないかと最近は思うようになった。ノスタルジックな気持ちになれるなんて聞こえはいいが、単に「終わってしまったもの」に対する優越感に浸って安心しているだけなのかもしれない。

二度と開かないシャッターや取り壊された建物など、終わってしまったものは決して自分に追いついてくることはない。少なくとも時間という概念の中では。終わってしまったものは留まり続け、自分は怠惰ながらも時間の中を少しずつ進んでいく。時を経るということにだけ関して言えばそれは負けることのないレースで、その確約された勝利におそらく優越感と安心感を覚えているのだろうと思う。

ビジネスマンで溢れかえるオフィス街よりも寂れた商店街に魅力を感じるのも、風情があるとかそういうこと以上に、時間のレースにおいて相対的に勝ちやすそうだからだ。人に対してのみならず、建物や街に対しても優越を追い求めながら生きている。

今までなんとなくノスタルジーという言葉で形容していた言いようのない感情がとても好きだったけれど、そのことに気づいてからはひどく陰険な感情に思えてしまう。